議論と今後の課題
どう描写されるかに敏感な私たち
もしあなたが聴覚障害者(ろう者、難聴者、中途失聴者、人工内耳装用者、etc)だとして
手話も口話(音声日本語)も日常生活に欠かせなくて
聞こえる人たち、つまり聴者と一緒に、仕事や生活をしていたとして、
やっと聴覚障害者に関するドラマ番組が出ると聞いたら、きっと飛び上がって喜ぶだろう。
書かれているストーリーをやっと「自分のこと」としてみれると。
それかもしかしたら逆かも。構える人もいるかも。
私は後者だった。うん。
いざドラマが始まると、
「中途失聴者がいきなり日本手話、これはおかしい」
という声が上がった。(少なくともTwitter上では)
その一方で、その見方自体が偏見だと言う声もあった。
反論した人は「中途失聴者でも日本手話を使用する人はいる」と言った。
全く同感だ。ことばは人を選ばない。
日本手話にろう者も、難聴者も、中途失聴者もない。聴者でも日本手話を第一言語として身につける人はいる。
インスタやYoutubeでの交流はどうだろうか?
手話啓発運動などが多くて、ポジティブな印象を受けた、私は。動画だからかな?SNSのプラットフォームによっては、方向や発信する内容が違うというのも面白い。
このように色々なところで当事者がドラマについて語っており
私は大衆のこのドラマに対する関心の強さを感じた。そりゃ、マイノリティーとしてはどう描写されてるのか「描かれ方」が気になるし、ムキになる。みんな共通点を見つけたいのだ。
Silentのストーリーの中でろう者の奈々さん(夏帆さん)が
色々なことをしでかすと
「ろう者は、あんなふうに〜しない」などと「あの表現は〜らしくない」というようなコメントが流れ出した。
(詳細は他のブログやTwitterで反応を見てほしい)
何が言いたいのか?
マジョリティーからみたマイノリティーは一つのイメージでしかないかもしれない。
でも、上記の例から分かるように
当事者(聴覚障害者)と言っても、個々の経験の差はあるし、多様だ、ということだ。
「マイノリティーの中の多様性」
使用域、多様な背景や文化、このコミュニティーの面白さが一般の人にもっと伝わったら良いと思うのだけど….。
この投稿の目的
話したいことはたくさんあるが
要点を6つに絞って話したい。
1)「当事者による表象」と談話(discourse)が大事な理由
6) 最後に手話を取り上げるなら、言語マイノリティーの私たちのことも知ってほしい

「当事者による表象」
1)「当事者による表象」と談話(discourse)が大事な理由
「当事者による表象」という言葉はそもそもSerge Moscoviciによって提唱された(1988)概念。
のちに色々な研究者が「当事者による表象」について書いているが、日本では松崎さんが「当事者の表象」という言葉をTwitterで紹介したのがきっかけで広まった感が強い。私はTwitter住民なので、どうしてもそっち寄りになる。
松崎さんのツィートによると
このようにマイノリティーであることは個性ではなく、存在の前提である、としている。
なので、当事者が当事者の役をやるということは、マイノリティー役をやるというだけでなく、その役に付随されたキャラクターの描写ができるということ。当事者を起用することで、差別の再刷り込みを避けることができるとも言っている。
アメリカでも「Coda コーダ、あいの歌」という映画が注目を浴びた。この作品は、デフファミリー(Deaf family)の中でたった一人の聞こえる子である少女(コーダ)の物語である。
ろうコミュニティー(Deaf community)の反応は何かというと、メインキャストとして三人のろう者が主演として登場したこと、ろう者というキャラクターが、強制不妊手術の被害者でないことや、無力で孤独な人として描かれることが多いのに対し、ステレオタイプを破った作品として高評価されたのである。
そのうちのろう俳優トロイさんは、第28回SAG(全米映画俳優組合)賞で助演男優賞を受賞。
同時期、日本では
どうして当事者による表象が浸透されにくいのでしょうか?という内容で記事がでた。
Huffpostの記事で映画監督の牧原依里さんは「ろう者の俳優が少なく映画作りに携われないのは、ろう者が何か足りなかったり劣っていたりするからではありません。機会や情報保障がなく、十分な場を得られていないから」と指摘。(🚨コーダ愛のうたが日本で放映された時を振り返っています)
いきなり専門的な話で申し訳ないけど
ワグナー et al(1999)は当事者の表象は下の図のように、コミュニティーの中で色々な会話を重ねて調整されていくものだとも言っていて、私はそれは核心をついている、と思っている。
*日本語で適当に訳したワグナー(1999)のイラストです。

イラストの説明: 1)ある特定のグループの中に個人(青い○)があります。メディアによって描かれる「違和感を感じること」や「不慣れな光景」で刺激を受ける ↓ 2)その違和感に対して、集合体として(もちろん個々で受け止め方が異なりますが、コミュニティー内で)検証し、対処します。解釈や理解の仕方も人によって異なりますが、集合体として対処し、何らかのアクションを起こそうとします。 ↓ 会話が進めば進むほど、異論や視点が発展。 ↓ 3)新しい当事者の表象の形がメディアを通して表出されます。 ↓ 4)その表象によって、マイノリティグループ内の社会的なアイデンティティーが推進されたり、強化される。 |
サイレントというドラマを通して、聴覚障害者という枠組みの中で、色々な会話(Discourses)がなされたことは良いことだと思いたい。
これは私の個人的な見解になってしまうが、聴覚障害者の中でも、ろう者は、言語的・文化的な集団だから、ろうアイデンティティーを持つ当事者によって表象されるのを好む傾向があり、この傾向は顕著なのではないかな、と。
2)サイレントのドラマで良かった点
中途失聴者のキャラクターということもあって
聴覚障害者として、当事者であるにもかかわらず、あまりキャラクターに共感できなかったというのが正直なところだ。
だって私はデフファミリーだもの。最初からスタート点が違うし、比べるのもなんか違うとも思う。
中途失聴者には中途失聴者の苦しみや葛藤があって
こちら側にはこちら側の苦しみと葛藤があるのだ。
話を戻す。サイレントのドラマで一番良かったのは、色々な当事者を巻き込んだ点だと思う。
色々な当事者が監修やアドバイス、キャストとして関わっていることがわかった。
手話監修者にはこの人たちが
さとりさん
中嶋元美さん
手話通訳士の方もずっとろう者がいる時は制作チームと一緒にいたというから
ほんと影の貢献者(アライ)だ、と思う。
ろう俳優には
手話教室の講師役で出演した江副悟史さん
ろう者の友人役で出演した那須映里さん
が出演した。これからも応援したい。
主役は中途失聴者の役、中途失聴者の人(当事者)ではなかった。
いいのかな〜と同じ当事者として、「私だったら嫌だなー。許せないかも」と、顔色を伺う部分がありつつも、このドラマが何を見せ、どういう方向に持っていきたいのかは非常に気になるところであった。実際、私の知る中途失聴者から、別に当事者じゃなくてもいいと思う、というコメントをいただいていて、そういうものなのか?と思っている。
これまでの内容では所々ツッコミどころがあったものの、まずまずで楽しんで視聴していた私である。
ろう者である奈々さんが画面に映った時には、その手話表現は「ないわ〜」というような意地悪なTLが目についた。私はそういうTLは、聴者俳優だから、尚更向けられているのだ、と思ってTLを読んでいる。
色々な意味で、サイレントは多様な当事者を巻き込み、真の対話とは何か?と大衆に呼びかけることに成功した、と、私は思う。
そろそろ、本題に入りたい。

「優生」が悪いのか、「描かれ方」が悪いのか?
3)受け入れられない演出:偏見の再刷り込み
その当事者を巻き込み、良い作品を作ることに成功したことを讃える一方で
どうしても受け入れることができない演出・設定について指摘したい。
生まれた子が「優生」という名で、その是非について、である。
「優生」という名を見た時、びっくりして頭が真っ白に。
新生児聴覚スクリーニング検査の結果が告げられ、「良かったー」と胸を下ろす想の姉がスクリーンに映る。
これはどういう設定なのだ?、と頭が混乱した。
まぁ、聞こえてて良かったねーってなるよね、と考えているうちにドラマは終わった。
終わった後で、考えた。この気持ちはなんなんだろうなぁ。
IGBの伊藤さん著の(Silentを見てギョッとしたこと) Yufukoさんもノートに記事(Silentと「優生」)を公開した。一番先に優生思想について書いてくれた。感謝。 |
4)優生思想と障害者同士の結婚、「なかったかもしれない命」
もっと深い考察に入る前に、
まず私の立場を書きたい。私のアイデンティティーは「ろう者」(Deaf)で、日常的に手話を使用している。なぜなら私の両親がろう者だからだ。ここでろう者とは?
*誤解のない様に言っておくが、大学でほぼ聴者と一緒に働いてるから聴覚障害者というアイデンティティーにも抵抗はない。補聴器だって使用してるから重度難聴者というアイデンティティーにも抵抗はない。でも「ろう者」という言葉が一番しっくりくる。
私の両親はろう者で、ろう者同士結婚して、私が生まれた。私を含む姉妹三人がみんな耳が聞こえなかった。そうした家族のことを米国ではデフファミリーという。
そうした背景を持つ私だが、この「優生」というネーミングに対してある種の気持ち悪さを抱いた。
そしてそれは翌日になっても治まらなかった。

思考を反芻させる
優生思想は確かに、障害者(劣性)全員を悪いと押し付けてきたイデオロギーの一つの形だが、子供が優生だったからと言って、差別だと叫ぶのは違うのではないか?と思った。
差別でないのなら何だというのだろう?この気持ちは何だろう?この現象に何と名前をつけるのだろう?と思った。
ドラマ話の設定では
新生児聴覚スクリーニング検査で、自分の子が難聴を持っていないと聞いて安堵する母親の姿である。
実際に自分の子が耳が聞こえているとわかって安堵する親が多いのも理解できる。胸を撫で下ろした人たちは全然悪くない。優生という名自体も悪くない。
でもどうしてこんなに胸が騒ぐのだろう?と私は思った。
ある時、それはある形ではっきりした。 デジャブ(déjà vu)なのだ。
ドラマの中で優生と呼ばれる子と、優生思想によって手話が推奨されなかった子の姿が重なった。
ドラマの中で耳が聞こえるとわかって喜ぶ母親と、優生思想によって口話法を推奨し、子の声を聞いて喜ぶ母親の姿が重なった。
(注)現実に子の声を聞いて喜ぶ親は全然悪くありません。今は昔と違って手話に対する偏見も薄くなっていると信じています。

誰かさんが言ってましたね「これはメタファーだ」と
ここで強調したいのは、優生(ゆうき)という名前ではなくて、ドラマ上の設定と演出、そして優生(字幕ユーザーの人にしか最初は気づけなかった)という偶然(?)も重なって
それはしばらくして、悪意を持った設定・演出のように思えた。実際はそうでもなかったかもしれないのに。
「優生」という言葉には二つ以上の意味がある。一つ目は名前としての「優生」、二つ目は「優生思想」この単語が悪いのではなくて、文脈によっては、遺伝性によって、聴覚障害を持って生まれてきた者を傷つける言葉になる、のだ。
制作チームが悪い、責任者が悪い、人のせいにする気もないのだけど、私からひとつ言いたい。
マジョリティー側はまず
この言葉が悪意を持った言葉に見えるのはどういうことなのか?
どういう背景があるのだろうか?
とは思わないに違いない、と思った。
「全く意味がわからない」と、聞かない選択をすることもできる。スクロールする手を止めて、パソコンから離れることもできる。
優生思想とろうコミュニティーの歴史について、全くそうした知識を持たない人たちは、
一般の人はそうした疑問を抱かない、のだと思う。
だからマイノリティー側が「悪意のない方に対して」説明しなきゃいけないのだけど
そこにも暴力性がある、とも思っている。
黙認することで変わらない世界であり続けるよりも、自分のことをどんどん話すことで、理解が深まるのなら、と思う。その一方で、どれだけのことを共有すればいいのかという線引きもだんだん難しくなってくる。だって自分の人生・生活にかかわる情報だから。
個人的な話になるが
私を産んだ両親は両方ともに耳が聞こえていない。私の両親は二人とも、戦後すぐに生まれた子たちで、母は、耳が軽くて、だんだん聴力が落ちていった方の中途失聴者、難聴者である。今では老いて、重度難聴になってきている。逆に父は全く声を出さないろう者である。
私の両親が出会ったのは、ろう者が集まる企画。だんだん惹かれ合い、結婚を決めた。だが両家族から反対され、特に母親側からは「結婚してはいけない。結婚したら縁を切る」とまで、と言われた。
私の母は、おばあちゃん(私の母の母)の反対を押し切り、駆け落ちに近い形で結婚した。
そうして私の姉、私、私の妹が生まれた。優生思想の影響が根深く残るこの社会の中で、難聴が遺伝するというのは、本人も含め、家族がすごく心配していたことだと思う。その心配は実際になった。
だから私が生まれた時(重度難聴)、母は落胆した。
どうやって私の障害を受容をしたのかはわからないけど、いつも「すごくがっかりしたのよ」と(いまだに)言ってくる。ここで思うのは「私は生まれてこなかったかもしれない命だった」ということである。これはろう者・難聴者を親に持つ子に通ずる経験だと思う。
話は飛ぶ。
日本社会の中でデフファミリーとして生きていく時、迷惑をかけずに生きていきたいが、そうはいかない。
そうはいかない例の一つとして社会と繋がる番号が挙げられる。そうだ、電話。
電話リレーサービスという公共インフラができる前は、大半の聴覚障害者が、代理電話を家族の一員にお願いした経験があるのではなかろうか?
電話リレーサービスができる前、デフファミリーとしてひっそり生きていくには本当に難しくて……。
本当に困るのですよね。全員に保障されているはずの公共インフラとしての電話、社会へつながる手段がなくて、社会につながる個人番号がファックスだけ、っていうのは本当に不便。
私の家族で緊急の電話を担当していたのは、軽度難聴の姉であった。(軽度難聴者がまさかのヤングケアラー)
音声日本語をなんとか耳から習得できるほどに聞こえていたらしい私の姉は、ことあるごとに両親から電話代理を頼まれていた。簡単な連絡ならまだしも(いや、それでも電話代理は頼んだらあかん、と思うけど)、すごく大事な電話も頼まれることがあって、すごく嫌そうにその任務を果たそうとしていた。
おそらく姉にとってはきっと「私しかやる人がいないもの」だったから余計に嫌だったんじゃないのかな?と思う。
その姉もだんだんその不条理さに気づき、「電話無理!」と断るようになっていくのだけど。
その姉が「むり」とはっきり断れるようになるまで時間を要した話が私の中では印象に残っている。
子供が親の代わりに電話すべきではない。 子供は通訳者ではない。 子供は代理交渉者ではない。 子供が成長期に心的負担を負うべきではない |
同じことが電話代理を頼まれることが多いソーダ・コーダにも言えるのでは?と思う。詳しくは聴覚障害の親を持つ健聴児(CODA)の通訳役割の実態と関連する要因の検討を読んでみてください。
だから、「耳が聞こえないことに不便はない」、と言いたいが、実際、(社会の不理解や構造的な支援の幅が狭くて)不便なことはたくさんあるから、ここは難しいところだ。
昔は電話代理サービスがなかった。だから社会と繋がれる個人番号がなかった。それはつまり緊急事態における連絡方法、インフラサービスが確保されていなかった、ということ。
だから私のしる何人かのろう者は、「緊急事態にいつでも代理電話をしてくれる聴友人」を重要視していた。少なくともそれ(緊急連絡をお願いする聴友人の確保)は私の親の世代以上(70代)では深刻な問題であったからそういう時代と比べると、電話リレーサービスのある今は、なんと便利になったものだと思う。
「緊急事態に電話を頼める人が居ないと生きていけない社会だ」なんて、なんて不便で、しんどいのだろう。そしてそれは今でも一部の人たちにとって「切実な問題」として常に付き纏っている。不安だ。
「どんどん要望を出していけばいいんじゃないのか?」という人がいるけど、それには支援する側と、支援を必要としている人の「ことばが同じだったら」を前提にしている。そしてそういった返し方、それ自体が言語的マイノリティーとしての日本手話使用者(日本語が苦手)には残酷な言い返しになることもある、ということを頭の中に、ちょっとでもいいから、入れておいてほしい。
電話リレーサービスは、公共サービスであるのにも関わらず、社会の中の認知が方が遅れているから、迷惑電話だと思われてガチャ切りされることもある。切実な問題。社会の理解がもっと広まってほしい。
論点に戻る。
「障害児が生まれる=悪」
という公式を連想させる設定・演出は、生まれながらにして障害と持っている子にとって「存在否定につながる」内容である、とも思う。そして聴覚障害を持っている私の親の人権をも軽んじていると思う。そしてその親を親として容認している当事者のCODA&SODAの存在をも蔑ろにしている、とも思う。
*個人的な意見です
ここまで、色々と話したところで、やっと3)の受け入れられない演出:偏見の再刷り込みに戻ってくる。
まとめるのが下手ですまない。
あの設定と演出は、悪趣味であり、今でも苦しんでいる優生思想による被害者を色々な意味で、無駄に刺激させたものだと思っている。
最後にまみねこ(耳をお空に置いてきた)さんの言葉で締めくりたい。
「これまでの当事者の頑張りを社会が否定したようなもの」スクリーン越しに。
5)ろう者(聴覚障害者)の表象にガイドラインが必要
アメリカでは必要以上に、害となるステレオタイプが強調され、放映されることのないように呼び掛けるガイドラインがネット上で共有されています。
アメリカでもろうコミュニティーについて取り上げる時留意する点を記述したガイドラインがあります。
メディア上に聴覚障害者が取り上げられることが多い今、ガイドラインの必要性を訴えたいです。
非公開ですが、翻訳をしたいという声もあります。
6) 最後に手話を取り上げるなら….言語マイノリティーの私たちのことも知ってほしい
「優生」というネーミングで、不快だという声が上がっている中
言語マイノリティーの私たち(日本手話者)のことも知ってほしい、と思います。
優生思想を推奨するグラハム•ベル (電話の発明者だが同時に口話教育の推奨者でもある)の影響で、日本のほとんどのろう学校で手話を禁止されていた時代(数年前まで)、
そして今、
日本手話で教育を受けたい児が、ろう学校で学習権の侵害をされている現状がある。
サイレントのおかげで日本手話に関心を持つ人たちが増えたようです。
日本手話を扱ってくださってありがとうございます。
そして、日本手話を話すろう当事者を巻き込んでくださってありがとうございます。
だけど、日本手話で学習したいと願う児の声はまだ汲み取られていません。応援してください。
北海道教育委員会札幌聾学校に対する提訴 第一回 口頭弁論 報告 2022年 12月2日(金)