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サイレントで描写されるマイノリティー像と優生学 

26 12月

議論と今後の課題

どう描写されるかに敏感な私たち

もしあなたが聴覚障害者(ろう者、難聴者、中途失聴者、人工内耳装用者、etc)だとして

手話も口話(音声日本語)も日常生活に欠かせなくて

聞こえる人たち、つまり聴者と一緒に、仕事や生活をしていたとして、

やっと聴覚障害者に関するドラマ番組が出ると聞いたら、きっと飛び上がって喜ぶだろう。

書かれているストーリーをやっと「自分のこと」としてみれると。

それかもしかしたら逆かも。構える人もいるかも。

私は後者だった。うん。

いざドラマが始まると、

「中途失聴者がいきなり日本手話、これはおかしい」

という声が上がった。(少なくともTwitter上では)

その一方で、その見方自体が偏見だと言う声もあった。

反論した人は「中途失聴者でも日本手話を使用する人はいる」と言った。

全く同感だ。ことばは人を選ばない。

日本手話にろう者も、難聴者も、中途失聴者もない。聴者でも日本手話を第一言語として身につける人はいる。

インスタやYoutubeでの交流はどうだろうか?

手話啓発運動などが多くて、ポジティブな印象を受けた、私は。動画だからかな?SNSのプラットフォームによっては、方向や発信する内容が違うというのも面白い。

このように色々なところで当事者がドラマについて語っており

私は大衆のこのドラマに対する関心の強さを感じた。そりゃ、マイノリティーとしてはどう描写されてるのか「描かれ方」が気になるし、ムキになる。みんな共通点を見つけたいのだ。

Silentのストーリーの中でろう者の奈々さん(夏帆さん)が

色々なことをしでかすと

「ろう者は、あんなふうに〜しない」などと「あの表現は〜らしくない」というようなコメントが流れ出した。

(詳細は他のブログやTwitterで反応を見てほしい)

何が言いたいのか?

マジョリティーからみたマイノリティーは一つのイメージでしかないかもしれない。

でも、上記の例から分かるように

当事者(聴覚障害者)と言っても、個々の経験の差はあるし、多様だ、ということだ。

「マイノリティーの中の多様性」

使用域、多様な背景や文化、このコミュニティーの面白さが一般の人にもっと伝わったら良いと思うのだけど….。

この投稿の目的

話したいことはたくさんあるが

要点を6つに絞って話したい。

1)「当事者による表象」と談話(discourse)が大事な理由

2)サイレントのドラマで良かった点

3)受け入れられない演出:偏見の再刷り込み

4)優生思想と障害者同士の結婚、「なかったかもしれない命」

5)ろう者(聴覚障害者)の表象にガイドラインが必要

6) 最後に手話を取り上げるなら、言語マイノリティーの私たちのことも知ってほしい


「当事者による表象」

1)「当事者による表象」と談話(discourse)が大事な理由

「当事者による表象」という言葉はそもそもSerge Moscoviciによって提唱された(1988)概念。

のちに色々な研究者が「当事者による表象」について書いているが、日本では松崎さんが「当事者の表象」という言葉をTwitterで紹介したのがきっかけで広まった感が強い。私はTwitter住民なので、どうしてもそっち寄りになる。

松崎さんのツィートによると

このようにマイノリティーであることは個性ではなく、存在の前提である、としている。

なので、当事者が当事者の役をやるということは、マイノリティー役をやるというだけでなく、その役に付随されたキャラクターの描写ができるということ。当事者を起用することで、差別の再刷り込みを避けることができるとも言っている。

アメリカでも「Coda コーダ、あいの歌」という映画が注目を浴びた。この作品は、デフファミリー(Deaf family)の中でたった一人の聞こえる子である少女(コーダ)の物語である。

ろうコミュニティー(Deaf community)の反応は何かというと、メインキャストとして三人のろう者が主演として登場したこと、ろう者というキャラクターが、強制不妊手術の被害者でないことや、無力で孤独な人として描かれることが多いのに対し、ステレオタイプを破った作品として高評価されたのである。

そのうちのろう俳優トロイさんは、第28回SAG(全米映画俳優組合)賞で助演男優賞を受賞。

同時期、日本では

どうして当事者による表象が浸透されにくいのでしょうか?という内容で記事がでた。

Huffpostの記事で映画監督の牧原依里さんは「ろう者の俳優が少なく映画作りに携われないのは、ろう者が何か足りなかったり劣っていたりするからではありません。機会や情報保障がなく、十分な場を得られていないから」と指摘。(🚨コーダ愛のうたが日本で放映された時を振り返っています)

いきなり専門的な話で申し訳ないけど

ワグナー et al(1999)は当事者の表象は下の図のように、コミュニティーの中で色々な会話を重ねて調整されていくものだとも言っていて、私はそれは核心をついている、と思っている。

*日本語で適当に訳したワグナー(1999)のイラストです。

イラストの説明:
1)ある特定のグループの中に個人(青い○)があります。メディアによって描かれる「違和感を感じること」や「不慣れな光景」で刺激を受ける

2)その違和感に対して、集合体として(もちろん個々で受け止め方が異なりますが、コミュニティー内で)検証し、対処します。解釈や理解の仕方も人によって異なりますが、集合体として対処し、何らかのアクションを起こそうとします。

会話が進めば進むほど、異論や視点が発展。

3)新しい当事者の表象の形がメディアを通して表出されます。

4)その表象によって、マイノリティグループ内の社会的なアイデンティティーが推進されたり、強化される。
適当な訳を私、富田がしました

サイレントというドラマを通して、聴覚障害者という枠組みの中で、色々な会話(Discourses)がなされたことは良いことだと思いたい。

これは私の個人的な見解になってしまうが、聴覚障害者の中でも、ろう者は、言語的・文化的な集団だから、ろうアイデンティティーを持つ当事者によって表象されるのを好む傾向があり、この傾向は顕著なのではないかな、と。

2)サイレントのドラマで良かった点

中途失聴者のキャラクターということもあって

聴覚障害者として、当事者であるにもかかわらず、あまりキャラクターに共感できなかったというのが正直なところだ。

だって私はデフファミリーだもの。最初からスタート点が違うし、比べるのもなんか違うとも思う。

中途失聴者には中途失聴者の苦しみや葛藤があって

こちら側にはこちら側の苦しみと葛藤があるのだ。

話を戻す。サイレントのドラマで一番良かったのは、色々な当事者を巻き込んだ点だと思う。

色々な当事者が監修やアドバイス、キャストとして関わっていることがわかった。

手話監修者にはこの人たちが

さとりさん

中嶋元美さん

手話通訳士の方もずっとろう者がいる時は制作チームと一緒にいたというから

ほんと影の貢献者(アライ)だ、と思う。

ろう俳優には

手話教室の講師役で出演した江副悟史さん

ろう者の友人役で出演した那須映里さん

が出演した。これからも応援したい。

主役は中途失聴者の役、中途失聴者の人(当事者)ではなかった。

いいのかな〜と同じ当事者として、「私だったら嫌だなー。許せないかも」と、顔色を伺う部分がありつつも、このドラマが何を見せ、どういう方向に持っていきたいのかは非常に気になるところであった。実際、私の知る中途失聴者から、別に当事者じゃなくてもいいと思う、というコメントをいただいていて、そういうものなのか?と思っている。

これまでの内容では所々ツッコミどころがあったものの、まずまずで楽しんで視聴していた私である。

ろう者である奈々さんが画面に映った時には、その手話表現は「ないわ〜」というような意地悪なTLが目についた。私はそういうTLは、聴者俳優だから、尚更向けられているのだ、と思ってTLを読んでいる。

色々な意味で、サイレントは多様な当事者を巻き込み、真の対話とは何か?と大衆に呼びかけることに成功した、と、私は思う。

そろそろ、本題に入りたい。

「優生」が悪いのか、「描かれ方」が悪いのか?

3)受け入れられない演出:偏見の再刷り込み

その当事者を巻き込み、良い作品を作ることに成功したことを讃える一方で

どうしても受け入れることができない演出・設定について指摘したい。

生まれた子が「優生」という名で、その是非について、である。

「優生」という名を見た時、びっくりして頭が真っ白に。

新生児聴覚スクリーニング検査の結果が告げられ、「良かったー」と胸を下ろす想の姉がスクリーンに映る。

これはどういう設定なのだ?、と頭が混乱した。

まぁ、聞こえてて良かったねーってなるよね、と考えているうちにドラマは終わった。

終わった後で、考えた。この気持ちはなんなんだろうなぁ。

IGBの伊藤さん著の(Silentを見てギョッとしたこと

Yufukoさんもノートに記事(Silentと「優生」)を公開した。一番先に優生思想について書いてくれた。感謝。

4)優生思想と障害者同士の結婚、「なかったかもしれない命」

もっと深い考察に入る前に、

まず私の立場を書きたい。私のアイデンティティーは「ろう者」(Deaf)で、日常的に手話を使用している。なぜなら私の両親がろう者だからだ。ここでろう者とは?

*誤解のない様に言っておくが、大学でほぼ聴者と一緒に働いてるから聴覚障害者というアイデンティティーにも抵抗はない。補聴器だって使用してるから重度難聴者というアイデンティティーにも抵抗はない。でも「ろう者」という言葉が一番しっくりくる。

私の両親はろう者で、ろう者同士結婚して、私が生まれた。私を含む姉妹三人がみんな耳が聞こえなかった。そうした家族のことを米国ではデフファミリーという。

そうした背景を持つ私だが、この「優生」というネーミングに対してある種の気持ち悪さを抱いた。

そしてそれは翌日になっても治まらなかった。

思考を反芻させる

優生思想は確かに、障害者(劣性)全員を悪いと押し付けてきたイデオロギーの一つの形だが、子供が優生だったからと言って、差別だと叫ぶのは違うのではないか?と思った。

差別でないのなら何だというのだろう?この気持ちは何だろう?この現象に何と名前をつけるのだろう?と思った。

ドラマ話の設定では

新生児聴覚スクリーニング検査で、自分の子が難聴を持っていないと聞いて安堵する母親の姿である。

実際に自分の子が耳が聞こえているとわかって安堵する親が多いのも理解できる。胸を撫で下ろした人たちは全然悪くない。優生という名自体も悪くない。

でもどうしてこんなに胸が騒ぐのだろう?と私は思った。

ある時、それはある形ではっきりした。 デジャブ(déjà vu)なのだ。

ドラマの中で優生と呼ばれる子と、優生思想によって手話が推奨されなかった子の姿が重なった。

ドラマの中で耳が聞こえるとわかって喜ぶ母親と、優生思想によって口話法を推奨し、子の声を聞いて喜ぶ母親の姿が重なった。

(注)現実に子の声を聞いて喜ぶ親は全然悪くありません。今は昔と違って手話に対する偏見も薄くなっていると信じています。

誰かさんが言ってましたね「これはメタファーだ」と

ここで強調したいのは、優生(ゆうき)という名前ではなくて、ドラマ上の設定と演出、そして優生(字幕ユーザーの人にしか最初は気づけなかった)という偶然(?)も重なって

それはしばらくして、悪意を持った設定演出のように思えた。実際はそうでもなかったかもしれないのに。

「優生」という言葉には二つ以上の意味がある。一つ目は名前としての「優生」、二つ目は「優生思想」この単語が悪いのではなくて、文脈によっては、遺伝性によって、聴覚障害を持って生まれてきた者を傷つける言葉になる、のだ。

制作チームが悪い、責任者が悪い、人のせいにする気もないのだけど、私からひとつ言いたい。

マジョリティ側はまず

この言葉が悪意を持った言葉に見えるのはどういうことなのか?

どういう背景があるのだろうか?

とは思わないに違いない、と思った。

「全く意味がわからない」と、聞かない選択をすることもできる。スクロールする手を止めて、パソコンから離れることもできる。

優生思想とろうコミュニティーの歴史について、全くそうした知識を持たない人たちは、

一般の人はそうした疑問を抱かない、のだと思う。

だからマイノリティ側が「悪意のない方に対して」説明しなきゃいけないのだけど

そこにも暴力性がある、とも思っている。

黙認することで変わらない世界であり続けるよりも、自分のことをどんどん話すことで、理解が深まるのなら、と思う。その一方で、どれだけのことを共有すればいいのかという線引きもだんだん難しくなってくる。だって自分の人生・生活にかかわる情報だから。

個人的な話になるが

私を産んだ両親は両方ともに耳が聞こえていない。私の両親は二人とも、戦後すぐに生まれた子たちで、母は、耳が軽くて、だんだん聴力が落ちていった方の中途失聴者、難聴者である。今では老いて、重度難聴になってきている。逆に父は全く声を出さないろう者である。

私の両親が出会ったのは、ろう者が集まる企画。だんだん惹かれ合い、結婚を決めた。だが両家族から反対され、特に母親側からは「結婚してはいけない。結婚したら縁を切る」とまで、と言われた。

私の母は、おばあちゃん(私の母の母)の反対を押し切り、駆け落ちに近い形で結婚した。

そうして私の姉、私、私の妹が生まれた。優生思想の影響が根深く残るこの社会の中で、難聴が遺伝するというのは、本人も含め、家族がすごく心配していたことだと思う。その心配は実際になった。

だから私が生まれた時(重度難聴)、母は落胆した。

どうやって私の障害を受容をしたのかはわからないけど、いつも「すごくがっかりしたのよ」と(いまだに)言ってくる。ここで思うのは「私は生まれてこなかったかもしれない命だった」ということである。これはろう者・難聴者を親に持つ子に通ずる経験だと思う。

話は飛ぶ。

日本社会の中でデフファミリーとして生きていく時、迷惑をかけずに生きていきたいが、そうはいかない。

そうはいかない例の一つとして社会と繋がる番号が挙げられる。そうだ、電話

電話リレーサービスという公共インフラができる前は、大半の聴覚障害者が、代理電話を家族の一員にお願いした経験があるのではなかろうか?

電話リレーサービスができる前、デフファミリーとしてひっそり生きていくには本当に難しくて……。

本当に困るのですよね。全員に保障されているはずの公共インフラとしての電話、社会へつながる手段がなくて、社会につながる個人番号がファックスだけ、っていうのは本当に不便。

私の家族で緊急の電話を担当していたのは、軽度難聴の姉であった。(軽度難聴者がまさかのヤングケアラー)

音声日本語をなんとか耳から習得できるほどに聞こえていたらしい私の姉は、ことあるごとに両親から電話代理を頼まれていた。簡単な連絡ならまだしも(いや、それでも電話代理は頼んだらあかん、と思うけど)、すごく大事な電話も頼まれることがあって、すごく嫌そうにその任務を果たそうとしていた。

おそらく姉にとってはきっと「私しかやる人がいないもの」だったから余計に嫌だったんじゃないのかな?と思う。

その姉もだんだんその不条理さに気づき、「電話無理!」と断るようになっていくのだけど。

その姉が「むり」とはっきり断れるようになるまで時間を要した話が私の中では印象に残っている。

子供が親の代わりに電話すべきではない。
子供は通訳者ではない。
子供は代理交渉者ではない。
子供が成長期に心的負担を負うべきではない
*個人的な意見です

同じことが電話代理を頼まれることが多いソーダ・コーダにも言えるのでは?と思う。詳しくは聴覚障害の親を持つ健聴児(CODA)の通訳役割の実態と関連する要因の検討を読んでみてください。

だから、「耳が聞こえないことに不便はない」、と言いたいが、実際、(社会の不理解や構造的な支援の幅が狭くて)不便なことはたくさんあるから、ここは難しいところだ。

昔は電話代理サービスがなかった。だから社会と繋がれる個人番号がなかった。それはつまり緊急事態における連絡方法、インフラサービスが確保されていなかった、ということ。

だから私のしる何人かのろう者は、「緊急事態にいつでも代理電話をしてくれる聴友人」を重要視していた。少なくともそれ(緊急連絡をお願いする聴友人の確保)は私の親の世代以上(70代)では深刻な問題であったからそういう時代と比べると、電話リレーサービスのある今は、なんと便利になったものだと思う。

「緊急事態に電話を頼める人が居ないと生きていけない社会だ」なんて、なんて不便で、しんどいのだろう。そしてそれは今でも一部の人たちにとって「切実な問題」として常に付き纏っている。不安だ。

「どんどん要望を出していけばいいんじゃないのか?」という人がいるけど、それには支援する側と、支援を必要としている人の「ことばが同じだったら」を前提にしている。そしてそういった返し方、それ自体が言語的マイノリティーとしての日本手話使用者(日本語が苦手)には残酷な言い返しになることもある、ということを頭の中に、ちょっとでもいいから、入れておいてほしい。

電話リレーサービスは、公共サービスであるのにも関わらず、社会の中の認知が方が遅れているから、迷惑電話だと思われてガチャ切りされることもある。切実な問題。社会の理解がもっと広まってほしい。

論点に戻る。

「障害児が生まれる=悪」

という公式を連想させる設定・演出は、生まれながらにして障害と持っている子にとって「存在否定につながる」内容である、とも思う。そして聴覚障害を持っている私の親の人権をも軽んじていると思う。そしてその親を親として容認している当事者のCODA&SODAの存在をも蔑ろにしている、とも思う。

*個人的な意見です

ここまで、色々と話したところで、やっと3)の受け入れられない演出:偏見の再刷り込みに戻ってくる。

まとめるのが下手ですまない。

あの設定と演出は、悪趣味であり、今でも苦しんでいる優生思想による被害者を色々な意味で、無駄に刺激させたものだと思っている。

最後にまみねこ(耳をお空に置いてきた)さんの言葉で締めくりたい。

「これまでの当事者の頑張りを社会が否定したようなもの」スクリーン越しに。

5)ろう者(聴覚障害者)の表象にガイドラインが必要

アメリカでは必要以上に、害となるステレオタイプが強調され、放映されることのないように呼び掛けるガイドラインがネット上で共有されています。

アメリカでもろうコミュニティーについて取り上げる時留意する点を記述したガイドラインがあります。

メディア上に聴覚障害者が取り上げられることが多い今、ガイドラインの必要性を訴えたいです。

非公開ですが、翻訳をしたいという声もあります。

6) 最後に手話を取り上げるなら….言語マイノリティーの私たちのことも知ってほしい

「優生」というネーミングで、不快だという声が上がっている中

言語マイノリティーの私たち(日本手話者)のことも知ってほしい、と思います。

優生思想を推奨するグラハム•ベル (電話の発明者だが同時に口話教育の推奨者でもある)の影響で、日本のほとんどのろう学校で手話を禁止されていた時代(数年前まで)、

そして今、

日本手話で教育を受けたい児が、ろう学校で学習権の侵害をされている現状がある。

サイレントのおかげで日本手話に関心を持つ人たちが増えたようです。

日本手話を扱ってくださってありがとうございます。

そして、日本手話を話すろう当事者を巻き込んでくださってありがとうございます。

だけど、日本手話で学習したいと願う児の声はまだ汲み取られていません。応援してください。

北海道教育委員会札幌聾学校に対する提訴 第一回 口頭弁論 報告 2022年 12月2日(金)

日本手話は「4ヶ月で身に付き、教えられる?」

19 8月

この謳い文句はどこにでも見るようなセールス文句です。

これが本当に問題で厄介だということをこのブログでは説明いたします。

元サイトはここです。

スクショも貼り付けておきます。

これから書くことは「手話を初めて、4ヶ月目で教え始めている人もいる」という内容について、私からの反応です。

  1. 聴者が手話を教えるということについて
  2. 自覚のない聴者がいう「私は差別などしない」発言
  3. 手話を学ぶ時に大切なこと

これを見てみてください。

  1. 聴者が手話を教えることについて

私は前よりかねて聴者が手話を教えるということについて強い抵抗心を持っています。たとえ現在の日本で英語がネィティブではない日本人によって教えられているとしても、たとえ聴者が手話講習を終え、理論的には手話を教えることができるという資格を持っていたとしても、その領域には踏み込むべきではないと思うからです。

私はアメリカの大学で助教をしていて、アメリカ手話を教えています。私の知る限り、アメリカのろうコミュニティで、アメリカ手話を教える聴者がいたとしたら、その人は必ずろうコミュニティの中でブラックリストに載ります。コーダやソーダだったりで、よほどろうコミュニティーの中で信頼関係を気づけていない限り、悪評がつきまといます。それほど、アメリカでは聴者が手話を教えるということは、タブーになっている、というのが私の印象です。それでも教える人はいつも、いつの時代もいますが。チューター(一対一で家庭教師)程度ならいいんじゃないかなと思う。

みなさん、ブラックリストと聞くと、どういうこと?と思うかもしれませんね。金融機関でもうお金を貸しりローンを組んだりしてはいけないと判断された人が乗るリストのことが頭に浮かぶのでは?と思います。字義通りに、ろうコミュニティーの中であの人は「手話者を利用して、利益だけを取る人だから気をつけるように」と黒い噂を流されるのです。そうなるとその人に手を貸すろう者はいなくなってしまいます。

不思議なことですが、「差別するな」「手話者を・ろう者を馬鹿にするな」「利用するな」という声や噂が上がると、決まってブラックリストに載せられた聴者たちは声をそろってこういうのです。「私は差別などしていません」「手話者・ろう者を馬鹿にしていません」「利用していません」と。

本人に自覚がないのです。自覚がないのだから、手の施しようがありません。

2.自覚のない聴者のいう「私は差別などしない」発言

聴者は「音(声)が聞こえること」=「人間の言語の標準」という暗黙の了解の中で生きています。

それはどういうことかというと、「人間の言語には視覚言語というものがある、それは手話だ」ということをわざわざ周知しなくても良い、ということを意味しています。それでなくても「耳が聞こえにくい」もしくは「聞こえないから….してほしい」という要望をしなくても良いということです。

そうしたことをまず考えなくても、地球は回るし、仕事も、人間関係も、個人に影響を与えることなく続けていくことができます。そうした多数派(聴こえる人たち)による多数派のため(聴こえる人たち)の世界が回っているという現実がある。

それに比べて聴覚障害者(ろう・難聴者・人工内耳装用者)はどうでしょうか?

毎日、

「口読めますか?」(少数派が多数派に合わせるのが当然だと思ってる)

「あなたのことを可哀想だと思ったことないよ」(当事者の経験を否定)

個々の経験や価値観はあれども、多数派と違う立場で生きていくのは「しんどい」し、「生きにくさ」を感じていると思います。

先ほどのコメントをマイクロアグレッションだと怒る少数派(別名:怒れるろう者)もいるでしょう。

手話を教えているあなた(聴者&手話の講師)に言いたいのは、あなたは、多数派であることによって、そうした当事者の経験や立場を踏み躙っているのだ、ということ。それだけでなくある特定の手話学習者の気持ちや立場をも軽視したことにもなるのではないかと思います。

なぜなら、あなたが「あなたは聴者で、多数派で、何もしなくても世界は回るという特権を持っている」という現実を差し置いて、「ろうコミュニティーで聴者であることとは何か?」ということを考えずに「聴者であることによって付随する特権と社会的地位で自分を守りながら、尊厳を要求」(当事者ならともかく)しているからです。

手話を教える仕事をしなくても、他に仕事はあるのに、わざわざ手話を教える・教える仕事をするのはどうしてでしょうか?そして手話を「4ヶ月」あれば身につけられるといえる根拠はどこからくるのでしょうか?と空いた口が塞がりません。謳い文句だったとしても言い過ぎだと感じます。

言い過ぎだと感じる理由…..↓

1)日本手話を身につけることは簡単なことじゃない。簡単だったら、日本手話を使用している児も「先生の言ってることがわからない」と言って道に提訴しない。こんなに苦労していない。わたしたちが声を上げた時、あなたは一緒に声を上げてくれましたか?他人事だと思っていらしたでしょう?だから、あなたは結局、多数派に属する個人で、「手話」を「道具」としかみてないんですよ。(サイトにも「道具」とか「スキル」とか書いてありますしね(笑))

2)日本でもネィティブではない日本人が「4ヶ月で身に付く英語」と謳い、人にテープを売ったり、クラスを薦める人がいますね。でもあなたが書いている「4ヶ月で身に付く手話」という謳い文句は、当事者を傷つけていると思います。それに「むっ」とした手話学習者・通訳士(者)もいるでしょう。

わたしたち当事者(特に手話で育ってきた聴覚障害者)は、コミュニケーション面や学業面で大変な思いをしています。特に多数派(聴者)が普段意識することのない音声情報において、私たちは「どんなことを言ったのか?」「何が大切なのか」でヤキモキしたり、情報保障によって常に理解している立場でいられるように努力しています。

その過程の中で、まだ手話の技巧が未熟な通訳士(者)・教師・手話学習者・ボランティア・補佐員、非常勤教員に妥協して、一緒に歩み寄りながら、生きています。

理想は「質の高い手話力のある人」がその立場にいると良い。だけど現実ではそうはいかない。

北海道の札幌ろう学校では、日本手話クラスがあったのに、その存続の危機を訴えたことがあります。

だからその「4ヶ月で身に付く手話」はその背景を無視し、わたしたちの苦しみを蹂躙している、とも言えるのです。

3. 手話を学ぶときに大切なこと

手話学習者が手話を学ぶ時に一番大切なのは、マイノリティー側に寄り添うこと、自分の立場を弁える事だと思います。前に工藤さんとの対談でそのようなことを話ししました。30分過ぎたあたりです。

私が初心者の手話学習者にいつも口を酸っぱくしていう「手話を学ぶ時に大切なこと」は

1)楽しむこと

2)聴覚障害者(ろう者・難聴者・人工内耳装用者)の個人の経験や考えを尊重すること

3)自分の立ち位置をいつも考え、弁えること

だと言いました。がこれからは、「当事者(手話者・ろう者)から教わること」が上記に加わることになりそうですね。

私からは以上になります。

急いで書いたので誤字脱字失礼。

保護中: 「私は差別などしない」という話し方が社会的弱者をさらに傷つけているのでは?という視点

5 5月

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よく言われる「ろうの世界は狭い」について

4 10月

私はいつも目を輝やせながら「手話の世界に魅了されて…」と、いう聴者に出会うと、

あたらしい世界へこうこそ!という歓迎する気持ちと、この人はどこまでこの世界に付き合ってくれるのかな?という気持ちがいつも交差する。

出会った初日、目をまんまるさせ、硬直しっぱなしだった子がいたとする。そうすると、こりゃいかん、この人はすぐに(この世界から)いなくなるかもしれんな、と思ってしまう。

しかし例外もある。

ある時、そういった子が、私の知人の男性を連れてきて、「この人が彼氏で….」と紹介してきて、すごく驚いたこともある。これはうまくいって、ろう者の世界にやってきた短期滞在者・旅行者が、この世界に住む人と出会って、恋に落ちて、私たちの世界の一員になった、というケースだ。

逆に初めから手話の技巧などもしっかりしていて、これはいけるかも、と好意的だった子が、突然ふと来なくなったりして、びっくりしたこともある。優しい人は、何も言わずに去るので、どこかで、誰かさんとゴタゴタしちゃったかな?ごめんね、と心の中で、いつかどこかでまたのご縁があればいい、と願う。

かといって、こっちの世界に長くいる人に、出会った時に感じた印象にパターンがあるかと思ったら、そうでもないので、聴者といってもかなり色々な人がいるのだな、と思っている。

ある程度、こっちの世界に長くいる人だと、ろう者の友達がたくさんいて、共有の友人について、話題を共有することもある。

古株さんなんかは、私たちに「あの団体にいたのね、ならあの人は知ってる?」「〇〇学校といえば、XXXXさん知ってる?」という、この狭い世界ならではの話題を繰り出してくる。そういう人たちに対して私は勝手に「同志」であると思っている。こういう時は大体、私だけでなくて、周りの人もこの人は特別と、安心感と信頼感を持っていることが多い。

古株さんがちょっとつまずいて、失敗したとしても、周りのろう者はそんなに怒らない。他のところで色々尽くしてもらったり、色々動いてくれていることを、私たちは知っているからだ。状況によっては面倒なことになることがあるが。人間だもんね、そういうこともあるさと思ってしまう。

でもこちらの世界の事を知っていても、その周りでウロウロして、なかなか踏み込んでこれない人たちもいる。

ろうの世界を訪れている旅行者、短期滞在者たちに、こちらの世界が「どれだけ狭い」かを力説したい。今日はそういう投稿だ。

こんな事を言うと世界は狭いといっても、世界というのも人によって異なるのだから、あまり根拠的な発言ではない、と反論してくる人がいるかもしれない。そういう人たちに伝えたいのは「ろうの世界が狭い、のはそれなりの根拠や理由があるのだ」と(数値的なデータの話はまた今度)。

ろうの世界の新参者は、こちらの世界では、「会うことは二度とないだろうと思っていた人が思ってもいなかった形で再会する」確率がとても高いということを知らないだろう。

ここで私の友人の一人であるCさんとのことを書きたい。

私が大学院に在籍していたときのある夏休みのことだ。

私は住んでいた家の前にあった椅子に腰掛けて外を眺めていた。そのストリートはギャロデット大学に続く道で、たまにろうの学生さんを見かける。忙しい時期には週に一回は知り合いとばったり出会ったりして、小話をするということも珍しくはない。

私が腰掛けていた時は夏休みだったから、知り合いと出会うという確率は低かった。なのに私は知り合いの顔を見つけた。K君だ。K君は遊び上手な人で、いつも友達に囲まれている。どこかで「K君と一緒にいるとすごく面白いんだよ。K君と友達だなんてすごくクールだね」って言われたこともある。K君の後ろに3人知らない顔が並んでいた。気づくかな?とみていたら、K君の目が私の顔を見つけてパッと明るくなった。手を振っている。私も振り返した。K君は「ここに住んでるのか?知らなかったよ」というと、後ろにいた3人の女の子を紹介してくれた。3人ともすごく可愛い子だった。1人はスウェーデン生まれ、アメリカ育ちのブロンドの女の子、その隣でブルネイの髪の女の子がいて、その子はK君のことが好きそうだった。その隣で赤毛の髪の毛を一つにまとめて、すごくテキパキとしたアメリカ手話をする子がいた。名前を聞くと、Cさんという人だった。これがCさんとの最初の出会いだった。この時は私もCさんも、いつか再会するとは思っていなかったし、当時、私は大学院が終わったら日本に帰るとも言っていた。

その日、私たちは近所の無料のプールに行って、たくさん泳いで、昼ごはんを食べた。Cさんは三人の中ですごくコミュニケーション力が高かったからか、拙いアメリカ手話の私にたくさん話しかけてくれた。フライドオニオンを胸がやけつくぐらい食べて、そのあとはK君の家でゲームをして遊んだ。私は宿題があるからと言って、暗くなる前に帰った。Cさんとはその年、それっきりで二度と会うことはなかった。

数十年後、子供を産んだ後、私はCさんと再会を果たした。それも思ってもいなかった形で。子供と一緒に学校の教室に入ったら、Cさんがいた。最初はどこかで見た顔だと思ったが、Cさんとは思わなかった私は、どこが娘の教室なのか?と尋ね、Cさんは私の顔をまじまじを見つめて、「私たち前に会ってるよね?K君とプール行ったじゃない?」と言った。そして続けて「私、ここで教師やってるの。あなたの娘の先生よ」と言った。このように再会した時、私たちはお互いにびっくりし、「ろうの世界は狭いね」とお互いに言って笑い合ったのだった。

ところでCさんには甥がいる。甥の母親は手話通訳者だった。名前はJさん。Jさんは私がラボにいた時すごくお世話になった手話通訳者さんだ。後になってCさんからJさんの名前を聞いた時、私はすごく驚いた。これも後になって分かったことだが、Cさんはデフファミリーで、あちこちに親戚がいる。親戚の一人は大学の教授だし、Cさんの両親は学校の先生だったし、叔父なんかは校長先生だったりするのだ。だからCさんはいつも言動にすごく気を遣っているようだった。たとえ話題がCさんに全く関係のないことだったとしても、彼女はいつも気をつかって人と接している。その例の一つがよくわかるエピソードを書こう。

ある時、私とCさんはバーにいた。ろう学校の資金活動の調達でイベントを開催していた。Cさんがバーで「いいなー」と思って話していた相手が、Cさんの兄の生徒だと分かった時(Cの兄は某大学で教授をしている)、すぐに「彼はダメだ。兄と近すぎる。」と言って、帰ってしまった。その光景を見てなるほどなぁ、と思った。私も経験したことがある光景だけに親近感が沸いた。

これはアメリカだけの現象かと言ったらそうでもない日本でもそうだ。

デフファミリーだとあちこちに家族の友達がいて、悪いことをすればすぐに噂が広まったりする。「だから悪いことはできないよ」っていっていたデフファミリーの友人も少なくなかった。だからいつもろう者は言うのだ「ろうコミュニティーは縁を切るには狭すぎる」と。

今思えば、彼らも、ろうコミュニティーにやってきた新参者がいたら「どこの出身で、どこの誰に手話を教わったのか?」を色々聞いていたように思う。そうすることでテリトリーを確認するのだ。あの人に教わったのか、じゃあ、あそこら辺だったら、BさんとDさんあたりかな、と新参者の人間関係を推測したりする。

新参者が、この世界で

「どうやって手話を覚えたの?」「どこで手話を習ってるの?」「どうして手話を習おうと思ったの?」と聞かれたりしたら、光栄に思うべきだ。少なくともあなたの目の前にいるろう者はあなたに関心を寄せている。あなたがどういう人間で、どういう人間関係を持っているのか、を聞き出そうとしている。

手話を学ぶ場所が限られていることは、みんなが周知の事実で、だからこそ色々聞いたりするのだよね。

新参者にはろうの世界に入ったら、人間関係をよーく観察して、言動に気を払っていただきたいものだ。藪から棒にあれこれ首を突っ込んだり、人の話(ろう者の噂話)を広めたりすると、自縄自縛という残念な結果になってしまって、「ろうの世界はもうゴリゴリ」だと去っていくことになる。

私は今日も新参者を相手に、手話を通して、ろう者の世界を伝える努力をしている。

この種がいつか実を結ぶことを願って。

子供に日本手話を

29 4月

一年前にこういう動画を作りましたが、こちらにアップしていませんでした。

クリックするとhttps://youtu.be/1KvxFoNiD-oYoutubeに飛びます

この動画は一部の人に強い感情を引き起こすようです。

自己責任で視聴ください。

手話歌は文化の盗用?

6 3月

このブログを読む前に私の書いたことが必ずしも正しいとは思わないでください。このブログを読むことで手話歌とは?手話とは?と考えるきっかけになってくれれば嬉しい。

伊藤さんが書いてくださった記事[手話歌に対するモヤモヤ]を読んだ上で、以下の文章をお読みください。

炎上した元となるツィートに興味のある方はここをクリック。ここでは個人に対する攻撃を目的とするのではなく、何が問題なのかをろうコミュニティと社会正義という分野から掘り下げることを目的とします。私が大学で教えている分野でもあります。文化の盗用には色々な見方があるということをここに述べておきます。

私は以前のツィートで文化の盗用について指摘しました。

ここで改めて、強調しなければならないのは強力翔さんではなくて

「手話歌=文化の盗用」ならば、

ろうコミュニティはどうするべきなのか、個人個人がどう動けばいいなのか、1)コレまでの「文化の盗用」の例、2)歌という枠組みがもたらすもの、3)説明責任、この三つのポイントにそって、具体的な話をしたいと思います。

1. これまでの「文化の盗用」の例

実はろうコミュニティから「手話という言語」をかすめとって、その利点のみを生かそうとする試みは

歴史を見れば初めてではないんですよね。

以下に具体的な例があります。

ベビーサインの例

手話、ろう者を取り扱ったドラマで聴者がろう者の役をやる

ベビーサインの誕生までの経緯について、ここで少し

手話の研究に関わった人たちが、研究者といっても、言語習得、発達心理学あたりの研究者が多い気がします。手話がろう・難聴児に利益になるだけでなく、聴児にも色々な利点があるということから

Baby sign langauge やそのほかの似たような団体を立ち上げています。1980から90年あたりですね。

ちょっと調べればわかりますが、本や教育教材などを売って、かなりの利益を得ています、ね。

ベビーサインという用語が一つの概念として一人歩きしてますが、サインは英語からのサインランゲージからきたものだし、教えてる手話だって、アメリカ手話から借用している(盗用?)ものです。

手話の良いところを広めるのはいいのですが、肝心のろう者・難聴の子供のニーズは置き去り。

ベビーサインという団体がろう者・難聴者のニーズに対する発言にバックアップしてくれたこともありません。

しかも日本ではアメリカ手話がベビーサインとして教えられています。日本には日本手話があるのだから、日本手話をベビーサインとして教えればいいのでは?はて?それちょっとおかしいんじゃない?とも思うのです。

以前、その質問を投げかけるもその団体は我関せずという姿勢。

次に手話、ろう者を取り扱ったドラマで聴者がろう者の役をやることに対して

「ろう者の役を演じることで、役者として成長できる」

という人がいますが、ろうコミュニティの中で、こういう声は聞いたことがありますか?

下のツィートを見ていただきたいです。

役者がどれだけ手話を練習しても出る違和感。それだけでなく役の設定(時代背景、人物の背景)と手話が合ってないという問題もでます。例えばオレンジディズの聴覚を失った萩尾沙絵(柴咲コウ)は中途難聴の設定、それなのに手話がそれっぽくなかったんですよね。どちらかというと聾学校育ちのろう者が使うような手話。中途難聴者が使うことは、なんというか現実的ではない(中途難聴者の人たちすみません…..🙏)。

そんなことをいうと「それっぽいとはなんだ?」という声が聞こえてきそうですが、そういうことです。

手話は言語なのだから、色々な表現方法がある。手話の中にも「〜っぽさ」があるんですよね。

そういう知識はろうコミュニティーで色んな人と出会わないとわからない。

手話という言語、ろうコミュニティーに敬意を払っている、というのなら、役者は手話を学ぶべきでしょう。少なくとも3年間以上は、手話者と関わった経験や、手話講習会などに参加して、みっちり手話の練習をするべきです。

ろうコミュニティーと接点をもつようにしてほしいです。少なくとも英語をペラペラ話す役をやるとき、短期間で勉強して、役に入ろうとは思わないでしょう?それと同じ理論かな、と思います。

この例にはまた別の概念が関わってきます。「リプリゼンテーション・マターズ(代表には意味がある、代表者がいることが大事である)です。英語ではrepresentation mattersになります。

聴者がろう者の役をやって、役者として一人前と認められることは良いことかもしれませんが、私たちの声は無視ですか?「役者の手話に違和感が…..」「役者は聾者であってほしい」という当事者の私たちの声は重要でない、ということでしょうか。

一人前と認められる方法にしても他に何か手段があるんじゃないでしょうか?

主役はある程度、人を集められる人がいいという人がいるかもしれませんが、ろう者・難聴者たちを主役にしたことがないのだから、比較できませんよね。だってやったことないんだもの。前例がないから….ということは良い言い訳なのかもしれませんね。

最後に肝心のろう者・難聴者たちへのニーズへの理解、手話への認知の方は、どうなんでしょう?

もしろう者がろう者の役をやるならば、当事者がその役を演じることで、より認知度を広める活動ができるのではないでしょうか。現場の人たちのろう者・難聴者への理解も深まります。

ベビーサインの例や手話、ろう者を取り扱ったドラマで聴者がろう者の役をやるという上記の例について文化の盗用であると主張してきましたが、実際に文化の盗用であるか、どうかは、どの枠組みかアプローチにもよります。ここで2番目の要点です。

2. 歌という枠組み

私はツィッターでキム・カーダシアンがkimonoという言葉をブランド名に使用しようとしたことで文化の盗用と批判を受けたことについて記述しました。しばらくしてキムは「敬意を払っている」といって、ブランド名を変えました。日本人、ほっとしたよね?(私もです笑)

アメリカで「着物」という言葉の概念がキムの下着というイメージになっては大変!これが私の思う文化の盗用です。

文化の盗用のイメージ

文化の盗用であるかを決めるのは上記の絵のように、ダイナミックに、大衆のその言葉の意味への理解が変わってしまった時に起こります。(キムさんはブランド名を結局は「キモノ」にしなかったので、そんなことは起こりませんでしたが….)

イメージを決めるのはこのように個人がもつ影響力です。

影響力は何によって左右されるでしょうか?それについて考えてみる必要もありますね。

こういうことはファッション界、音楽界ではよくあることなんですよね。白黒ではなくてグレー、ってのが多いのが実際のところだと思います。

だから、「文化の盗用だ」という話になった時に、注目されるのは、その分野においての社会的地位です。

出身、肌の色、社会経済的地位、性、身体的特徴(例:ろう者か聴者か)などがここに列挙されます。

ここで本題です。

手話歌とは何なのか手話歌は文化の盗用なのか?

このトピックについて、私もここ数年間、頭をひねって考えていました。「手話」ではなくて「手話歌」ですからね。

ここで述べることは、私、当事者としての、一個人の考え方である、ことをここで主張しておきます。

私は歌を歌うことが好きですが、音声言語で歌うときは声に出して歌い、手話で歌うときは手を動かして歌います。声と手話が混ざることはありません。これは私の楽しみ方で、人によって楽しみ方が違う、と思います。

個人でやるレベルならどうぞ、どうぞ勝手に、というのが私の意見です。

ですが、声を出して、歌うたっての手話歌をコンサートでやったり、チケット販売して、利益を生み出すビジネスには個人的にはちょっと違うんじゃないかな、と思います。

ですが、やはりこれも私個人の好み意見にすぎない、と思います。

アメリカでも手話歌に対する論考は様々で、手話歌に対するジャンルや議論がなされています。

コレから手話歌というジャンルが確定されていくのでは、と思います。でも声出して手話はちょっと違うと思う、うん。

私が個人的に好きな手話歌手さん、アンバーさんによる歌(アメリカ手話)をここに貼り付けておきます。アメリカは日本と比較すると、ろう者による手話歌が多いナーというのが私の個人的な見解。

手話歌という言葉を使って、舞台やパフォーマンスをする人たちが「手話」という言葉を取り入れるのならばろうコミュニティーからのフィードバックは重要じゃないでしょうか?

ツィッターからどんなフィードバックが出ているのかをみていきましょう。

宮崎さん:「世間でいわれている手話歌って本当にわからないんですよ。情景もクソもない。」「『ろう』を利用して、手話を利用して利益をえる。私たちの尊厳はどこにあるのでしょうか。手話は誰のための言葉ですか?それを考えていただきたいと思います」(詳細はツィッターをみてくださいね)

上のツィッターをクリックすれば、元のリンクがみれます

かえでさん:「魅力のある人にならないとね」ってどういうこと? 私たちの手話は魅力的でないってこと?

上のツィッターをクリックすれば、元のリンクがみれます

その他にも色々なつぶやきがありましたが、ろうコミュニティーが指摘している内容からふたつにまとめられると思います。

#representationmatters リプリゼンテーション・マターズ:ろう者を手話を利用しないで、ってことですよね。

影響力のある人としての特権があるのだったら、その特権を有効に使ってほしい:コミュニティーへの還元ですね。良いところだけ取るんじゃなくて、ね。

こんなことを書くと

A:「手話好きだし、手話できる人を尊敬しているからこそ、手話歌しても大丈夫じゃないかな」

B:「ちょっと怒りすぎだと思う」

C:「そんなこと言うなら手話歌はもうやっちゃいけないってこと?」

というひとがいそうですね。

そんなことを言う人がいたら、厳しいけれど、もう少し「ろう者と手話の歴史的背景」について勉強してほしいとお伝えします。手話をしていただけで殺されてたり、餓死するほど差別されていた時代がありました。前こそではないものの、無知による差別、不公平さは今も続いています。

影響力のある人なら、その特権を生かして、より多くの人に、自分がやっていることはろう者、ろうコミュニティーから教えてもらったということを伝えてほしい。そして社会的な差別や抑圧に一緒に戦ってほしい。これが最後のポイントに繋がります。

3. 説明責任(Accountability)

影響力のある人ほど、特権があります。特権を使って何をしているのか、決定を下すまでどのような過程を通ったのか、コミュニティーに対して説明をするという責任がともないます。

手話歌という言葉に「手話」が使われていることにより、手話がきちんとした言語であるという認知度を広める妨げ(これも伊藤さんが指摘しておりましたが)になっているという事実に目をつぶらないでください。

具体的な案

  1. 手話歌という言葉を使うのをやめる。
  2. 手話歌という言葉を使うのなら、説明責任を果たしてください
  3. コミュニティーへの還元を明示する(行動でも言葉でも構いません)
説明責任、大事ですよね

最後に手話歌や手話コーラスという言葉を使って、色々活動している人たちへ

ろうコミュニティーが戦っている差別や抑圧に対して我関せずという姿勢を貫いていないですか?この機に、手話について、ろうコミュニティーの中の自分の立ち位置について考える機会になってくれれば、とおもいます。

ファッション界、音楽界では「文化の盗用だ」と批判されることはよくあること。文化の盗用だと批判を受けた時、こういうコミュニティーからのフィードバックを受けて自分のやり方を変えていく、または説明ができる人は、より上へ成長できる人なのではないでしょうか。

前回の投稿『誰が一番、聴者社会で得しているか?』も時間の隙によんでみて欲しいです。

デフファミリー

31 12月

デフファミリーって何?

定義にもいろいろあります。

家族全員(親、子供)がみんな耳が聞こえないというのが条件だという人もいれば

両親が(子供は聴者=コーダ)聞こえなかったら、デフファミリーの条件を満たしているという人もいます。

アメリカの統計によれば

90パーセントのろう児の親が聴者であり、10パーセントの親がろう者

つまり10人の耳が聞こえない子供がいればたった1人がろうの親を持っているわけです。

ゆえに彼らの視点はユニーク

手話という言語を親から引き継ぎ、ろう文化を築いていく基台となる価値観を持つことになる彼らは言語的・文化的少数民族者なのです。

アメリカで紹介されてるデフファミリーという動画が幾つかあります。

今日はその一つを。下に日本語訳があるので併せてご覧になってください。

My Deaf Family “Pilot”はジャレッドというろう親を持つコーダ、ジャレッドの視点で編集されています。

以下より日本語訳と画像です。
スクリーンショット 2016-03-16 14.56.07.png
ジャレッド:僕の名前はジャレッド
僕のお父さんの名前はレスリー、お母さんの名前はブリジェッタ
僕には弟がいてギデオンと言うんだ。サブリナという妹も。
一番下の弟はエイジャというんだ…そしてこれが僕のデフファミリー
スクリーンショット 2020-12-31 午後1.51.33
ろうの家族の中で唯一の聞こえる子供であることが当たり前という感覚なんだ。
スクリーンショット 2020-12-31 午後1.52.53
だって他に比べる家族がいないからね。
ろうの家族に生まれてよかったと言えることがあるとしたら
僕が小さかった頃、問題を起こして両親に連絡を取るぞって言われても「電話しても無駄だよ」って言えたことだね。
お父さん:(手話で)もっと(欲しい)?
ジャレッド: まぁ、僕は自分の両親が好きだし、今の状況と違って欲しかったなぁと思った事なんてない。だけど僕の両親は(僕の置かれている状況が)どんなに難しいのかわからないんだよ。
スクリーンショット 2020-12-31 午後1.54.41
エイジャ:見て!これ作りたい?
ジャレッド:あれを作りたいのかい?
エイジャ:うん
ジャレッド:飛行機を作りたいのかい?
エイジャ:うん
ジャレッド:時々ふと思うのはもし僕の両親が聴者だったら….と思うんだ。
英語が第二言語だと学校の中でやっていくのは難しいからね。
例えば、僕が小さい頃、お父さんは発音の仕方を間違えてたし。
ジャレッド:これを飛行機に使いたいのかい?
エイジャ:僕できないよ
スクリーンショット 2020-12-31 午後1.56.13
ジャレッド:エイジャには僕がいるから、少なくとも正しい発音を教えてあげれるし、だから笑われることもない。
(音楽が流れている)
サブリナ:マイケルジャクソンのダンスを時々見るのが好き。
ジャレッド:両親と一つだけ話し合えないことってやっぱり音楽。歌詞を音楽と一緒に言えるけどやっぱり音楽がどんな感じなのかは説明できない。
お母さん:(マイケルジャクソンの歌詞を手話で歌っているDon’t stop until you get enough)
それで、サブリナが生まれた時、すぐに聴力テストがあったのね。
看護婦さんが険しい表情で部屋を行ったり来たりしていた。
「あなたの娘さん、反応していません」と言ったのよ。
それで私は「あ、ろうなのね」
「全然大丈夫です」って言ったの。
スクリーンショット 2020-12-31 午後1.57.55
ラジオの雑音
でも息子のエイジャが生まれた時、病院のみんなが部屋に入ってきて、「おめでとう!あなたの息子さんは聴力スクリーニングテストに合格しました」と言ってきて、私は「おめでとうですって?」それって他の(耳聞こえない)子供達を持っていた私たちは、おめでとうじゃないっってこと?みたいな。
お父さん:サブリナや
お母さん:サブリナとギデオンは?(不完全ってこと?)
スクリーンショット 2020-12-31 午後1.59.55
エイジャ:やめて
サブリナ:(笑っている)
お母さん:ろう者として、私は(耳が聞こえないってことは)一つの能力だと思ってる。耳が聞こえないことは自分の一部だし、耳が聞こえないことによって人生が豊かになってると思うし、本当にこれでいいって満足してる。
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.02.58
 お母さん:ジオメトリーの宿題の確認しなきゃいけないから
 ジャレッド:どうして?
 お母さん:どうしてって確認しなきゃいけないからよ。
ジャレッド:やらなかった宿題について、色々いってくる親じゃなかったらなぁと思う時もあるよ。
お母さん:点数を上げる必要があるわね。ジオメトリーのクラスでの様子もあとで確認するから。通訳者さんを配置してもらえるようにもお願いするわ。興味があるのよ…
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.13.34
ジャレッド:落ち着いて、お母さん。
お母さん:興味があるわ。
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.13.55
マーリーさん:あなたの両親の反応はどうだったの?
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.16.57
お父さん:私がろう者だとわかった時の私の両親の反応がどうだったかどうかって聞いてるんだよね。まぁ、ものすごくショックを受けていたね。
僕を普通学校へ通わせたし、近くの発音の練習をする教室があってね。大きくて、重くて、鬱陶しい補聴器を与えられたな。
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.23.19
中学校に入って、手話と口話の違いに気づくまで鬱陶しいとは思わなかったね。
マーリーさん:まってまって、ってことは手話の存在を中学校に入るまで知らなかった?
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.29.11
ジャレッド:口話教室があるからろうコミュニティーがはじまったと思ってる。苦しみによる団結、だね。
お父さん:自分の家族とのコミュニケーションはあまりなかったね。手話しないから(お父さんの家族側)。だから僕の子供とのコミュニケーションも難しい。
(シーンがかわる)
(金曜日の放課後)
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.37.29
ジャレッド:お母さんはいつも友達に来てもらいたがってる。
お母さん:クリスに遊びにおいでって言ったの?
ジャレッド:まだ
お母さん:クリスはジャレッドの学校での親友なの。小学校6年生の時からずっと知ってるのよ。でもクリスは私たちの家に来たことがないの。クリスのお母さんにテキストメッセージで聞いてみるわ。
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.41.27
お母さん:彼に渡して。
ジャレッド:今でなきゃいけない理由があるのかよ。なんて言ったのかは分かったから
(一方で近所の聴児とバスケットボールで遊ぶギデオン君)
友達:5から3つになったぞ
(代理電話サービスでピザを注文するお母さん)
お母さん:二つのLサイズのチーズ
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.52.22
友達1水泳やった方がいいぞ
友達2:水泳は得意だからな
友達1:知ってる
友達2:(お前こそ)水泳やった方がいいぞ
友達1スケートで忙しいんだよ
友達3:スケート始めた
ギデオン:ジャレッド ジャレッド ジャレッド なんて言ってるの?
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.53.07
ジャレッド:一番耐えられないのは、堂々と同情されるのこと。レストランに行ったら、いつも聞かれるんだ、何が欲しいのか?って。鬱陶しく感じる。そういう時に同情されてるなって思うんだ。
(シーンが変わる)
スクリーンショット 2020-12-31 午後2.54.08
お母さん:昔、私は聴者に対して、耳を指差して聞こえないっていうことを伝えていた。
そしたら、ほとんどの反応が「あ、ごめんなさい」と言われたり、「なんでもないです」って。
だから、「手話をする」っていうようになったの。周りの反応も(さっき例のと比べて)マシって感じるわね。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.05.25
ギデオン:みんなビデオゲーム上手くないの?誰か上手い人はいるの?
ジャレッド:生意気なんだよ。偉そうに。
(シーンが変わる
土曜日の朝)
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.11.09
お母さん:クリスと幼なじみでしょう。クリスはここに来たことがないわね。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.11.57クリスを呼ぶ時だって口論になったわ。どうして?クリスを呼ぶのがはずかしいの?ぎこちないのは、もしかして、私たちがろう者だから?
ジャレッド:違うよ。全然そんなんじゃないよ。お母さんに言われるままにされるのがいやだったんだ。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.13.12
ジャレッド:僕が思うに、そろそろ僕の世界を持たせてくれてもいいんじゃないかと思うんだ。僕のことについて全て知る必要もないと思うんだ。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.14.39
ギデオン:二つも?ずるいよ!
じゃあ半分頂戴!
僕が先に食べていいかって聞いたのに
二つあるってずるいじゃないか
お母さん:もしケンカするなら、二人ともこれは無し!
ギデオン:もう半分食べちゃってるよ!
お母さん:はい、おしまい。ふざけないで。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.16.34
ギデオン:今日はバスケットボールのトーナメントのためにカリフォルニア聾学校にいくかも。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.24.31
ジャレッド:僕の兄妹はいい学校に行ってると思う。彼らにとってとっても大事なんだ。聴学校では作れないような友達だって作れる。絆も強いし
歓声
太鼓の音
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.25.30
歓声
お母さん:ろう者だからってギデオンとサブリナの将来についてはあまり心配してないわね。だからと言って私の聴児の将来の心配もしてないけど。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.26.49
お父さん:僕は子供たちが心配だよ。みんなについて心配してるよ。彼らが人生の中で成功するかどうか。ろう者か聴者かはあまり関係がないね。
ドラムの音、たくさんの人の歓声
ドラムの音、たくさんの人の歓声
 レフリーの笛を吹く音
 ドラムの音、たくさんの人の歓声
ブザーの音
ジャレッド:ろう者に対する偏見はある。ほとんどの人たちがろう者は何も学ぶことができないと思ってる。
お父さん:聴者が私たちのことについて(ろう者)決めていることが、ある意味で私たちを苦しめていることがよくある。
お母さん:ろう者はね、1日中ずっと24時間、いろんな場所でそういう偏見と立ち向かわなきゃいけない。毎日、ずっとね。言わなくてもわかってるだろうけど。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.27.50
エイジャ:[手話で]愛してるよ
サブリナ:[手話で]すっごく愛してる
お父さん:私たちはデフフッドという言い方が好ましいと思っている。黒人フッド、女性フッドみたいにね。障害という見方よりも内在的なアイデンティティといったほうがいい。
スクリーンショット 2020-12-31 午後3.28.50
サブリナ:私、私の家族が大好き

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誰が一番、聴者社会の中で得してるか?その1

6 8月

誰が得してる?って、言い方はおかしいかもしれない。変な印象を与えるかもしれない。はっきりいっておきたいのは損得勘定で割り切れるものではない、ということ。水掛け論になってしまって、この議題はたくさんの人を消耗させるだけかもしれない。議論しても何も変わらないかもしれない。でも、これはろうコミュニティの中で生きていくならば避けて通れない議題だと思う。

一般でいう「耳の聞こえない人たちのコミュニティ」のことを私、個人はろうコミュニティと言っている。もちろん難聴者もその中に含む、と私は考えている。聴力のあるなしに関係なしに。コーダもいるし、ソーダもいる。聴力が良い悪いに関係なく、「聴力の損失」による社会からの抑圧、スティグマ、その他の色々なラベル(女性、障害者など)を私たちは背負って生きている。

私たちとは誰か?

1)聴者社会の中で「受け入れられやすい」(英語でPassing)耳の軽い人

2)デフファミリーの人

3)聴者の親を持つ難聴者、またろう者

4)3)とは逆にろう者・難聴児を持つ聴親

5)ろう者・難聴者に関わる人たち

6)ソーダ・コーダの人

まず1)聴者社会のなかで受け入れられやすい難聴者について

聴者社会の中で「受け入れられやすい」(英語でPassing)のはいつだって耳の軽い人たちだ。聴力が良くなくても、発音が上手ければ、それはそれで生きやすい。それでも日常生活に支障があるかないかでいうと、ないというわけではない。彼らには彼らなりの生きていく上での工夫があって、それも生きていく上でのスキルなのだというと思う。発音が上手い人たちの多くが、聴者社会の中で発言力を持つ。話す声を持つことは発言力を持つことだから。話す音声言語を持たない人たちから見ると悲しいけどこれは事実なのである。誰だって声を持つ人には耳を傾ける。つらづらと何言ってるのかわからない紙に書かれた書記言葉を読むよりは。

議論したいのはアイデンティティーの問題だ。

彼らの多くが、年をとるにつれて、残存聴力を失っていくので、それと比例して、やはり取り残される感覚、社会から疎外される感覚はあるだろうと予想する。ただその時にもうすでに築いてきた人間関係や、人脈関係があるので、ケースバイケースで生きていく人たちがほとんどなんじゃないだろうか。その場合、手話を覚えなくても、ろうコミュニティを、ろう者の存在を見ないふりをしても大丈夫なんだろう。ある人はろうコミュニティの中で積極的に友人を作ろうとするかもしれない。だがその時に受け入れる皿となるべき、ろうコミュニティへの門は狭く、簡単には開かない。ろうコミュニティはNew Faceには厳しい(これについてはまた勇気があれば、深く書きたい….)。

「手話が下手」「何を言っているのかわからない」「私たち(ろう者)と同じではない」

実際に投げかけられた言葉の多くは聴者社会に「受け入れられやすい」難聴者にとって馴染みのある言葉だと私は予想する。これらの反応は、自分とは異なる異質性を持つものに対する畏怖感、また自分を守ろうとする拒絶反応の例である。

申し訳ないが、今の日本のろう社会が、彼らにとって受け入れられていると感じる社会になるにはあと数年はかかるだろう。ろう社会を担う若い人たちには、様々なろう者のあり方について考える機会があるべきだ。ろう者とは何か?について議論する場所があるべきだ。手話について考え、知識を深める授業があるべきだ。そういう知識を増やしていくことが、「言語はこうであるべき」という固定観念から「言語の中にもいろいろあるね」というスタンスになる。

私は、聴者社会に受け入れられやすい側の当事者ではないので、以下に列挙するのはあくまでも私が見てきたパターンの極端な例である。誤解のないように難聴者にもいろいろいると言うことはここに述べておきたい。

例1:聴力のレベルは重度なのだけれど、かなり幼児期の早いうちからトレーニングを受けてきて、本人も相当な努力をしてきたから、普段、音声言語でのコミュニケーションができる。少し残された聴力があるから、自分のことをろう者とは思わない。

例2:軽度の難聴で、音声言語の獲得に苦労はしなかった。気づいたらはなせていた。普段のコミュニケーションができるが、いろいろな工夫が必要。例)片耳が聞こえにくいから、聞こえる方で話して貰うなど。

聴者にとっては例1と例2には大差があるようには見えないというかもしれない。だが、私から見れば、かなり差がある。経験の差に。例1の場合、円滑なコミュニケーションを図るため、視覚的なツールとして手話、キュードスピーチ、指文字などを使う。でないと難しい。例2は多分必要ない。

ここで私が強調したいのは、主題である。一般でいう「耳の聞こえない人たちのコミュニティ」のことを私はろうコミュニティと言っている。もちろん難聴者も、その中に含む、と私は考えている。聴力のあるなしに関係なしに手話をしている人たちもろうコミュニティのメンバーの一員だ、例えばコーダとか。もしコーダが自分がろう者だっていうのなら、それで構わない、と私は思っている。聴力が良い悪いに関係なく、「聴力の損失」「言語の損失」による社会からの偏見、抑圧、スティグマ、その他諸々の負担、つらさを私たちは抱えて生きている。

このブログを読んでいる人たちの中に、自分は聴者の社会に「受け入れやすい耳の軽い人たち」だと思う人がいたら、いくつかの質問をするから、それらの質問が’自分の経験に当てはまるかどうかについて考えてほしい。

これはチェックリストではない。人生の中で一回はこれらの要項について考える機会は必要だ。もしこれらに書いてある要項について考え、自分がもし、要項に当てはまることが多い、と感じたなら、自分が持つ受け入れられやすさ(Passing)を自覚し、よりよい社会のために、他の人のために使って欲しい。

これらに書いてある要項が自分に当てはまると予想したが、意外と当てはまらなかった人たちへ。なぜ、あなたが自分を聴者から受け入れられやすいと感じているのか、一度考えてみてはどうだろうか。あなたは自分が思っているよりも、周りから偏見を受け、差別を受けているはず。あなたのような経験をしている人たちはあなたが感じている数よりももっと多くいるはず。ろうコミュニティの中で、たくさんの人とできるだけ出会う機会を持つ努力をして欲しい。それはあなたがあなた自身の位置付けをより深く理解する手助けとなるはず。

  1. 自分がいつも一緒にいるグループは聴者であるか、または聴者らしく振舞うのが上手だ。
  2. 今から思えば、聴者から、話せる、聞けることで必要以上に「注目を浴びて」きた。
  3. スーパーマーケットや、ショッピングセンターなどにいるとき、「発音が変だから」 もしくは「手話をしているから」という理由でジロジロ見られたり、笑われたことがない。(ろう者からはカウントしない)
  4. 障害者をターゲットにした犯罪の被害者にされたことがない。
  5. 他のろう者・難聴者から「難聴者に見えない」と言われたことがある。
  6. ろう者の声ではなく、普通に声を出す(聴者らしく)ことができる
  7. ろう者に対して、難聴者の経験を必要以上に説明することがある。
  8. 難聴者の経験の説明を求められた時、必要以上に自分の経験がそれらしくみえるように話したことがある。
  9. ほとんどの友人が聴者である
  10. ろう・難聴者の声を代表して、声を出すことがある。
  11. 代表的な役割を与えられた時、実際にろう者、難聴者と話すことがない。
  12. ろう・難聴者から「あなたの発言したことで傷ついている」と言われたことがある

注意:これはチェックリストではなくて、あなたの経験を引き出し、自分の位置付けを考え直す機会を与えるものです。

注意:あなたの経験が重度難聴者のと違うからといって、あなたが今まで経験してきた社会からの抑圧を否定するものではありません。またこれらの 受け入れやすさ(passing)があるからといって、難聴者としてのラベル、アイデンティティーを外せといっているわけではありません。コミュニティーの中で自分の声が聞かれやすいという特権を持っていることを自覚して、自分を位置付けることは、長期的に見て大事だということをここに記しておきたい。

次は2.デフファミリーについて書きます

コーダについて

8 3月

コーダとは英語の略語CODAからきています。

Children of Deaf Adultsで、ろう親を持つ子供という意味になります。

 

ろうコミュニティの中で、CODA(コーダ)は耳が聞こえない親を持つ聴者の子供という意味で理解されているのですが

英語の直訳を見ると「ろう親を持つ子供」となるのでその意味で理解すれば、ろう児もコーダになります。私はコーダと言われたら、一応、聴者だよね?と確認を取るのですが、だいたいが聴児でろう児だったことはないです。ろう児だったらコーダという言い方をせず、ろう児っていうのがほとんどだと思うので、まぁ、それも驚くことでもないのですが。

コーダの誇りというタイトルの映画、時間のある時にご覧ください。

この映画はラチェルというコーダの子が全米高校映画コンテストのために作ったもので

みごとに優秀作をいただいたものだそうです。

以下、日本語訳です

 

(音のない状態で映像が流れる)
これはサイレントムービーではありません
これがどのようにしてろう者がこの世界を理解しているかなのです。
全てが視覚的で、雑音、色々な声、音はありません。

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私の名前はラチェル・ベアー、14歳
私の兄 ヤコブ、そしてサラという妹がいます。
そして私の耳が聞こえない両親、ジュリーとジョーイ
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私の兄妹はCODA(コーダ)
コーダとはChildren of Deaf Adultsの略語です。
ヤコブ、サラ、私はコーダとして、ろうコミュニティの中にいる多くのろう者と出会ってきました。
ベイエリアにあるろうコミュニティは広く、だからコーダのコミュニティーもそれに伴って存在しています。
 らt
コーダの誇りにもいろいろあって
例えば、マイケル・ベレスとシェリー・ヒックスによるハーフハーフのデュオに見られるソングーサイン(song-signing)
ハーフハーフとは半分が聴者で半分がろう者ということ
ではコーダのあり方について説明してくれるマイケルさんを紹介しましょう。
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こんにちは、僕はマイケル・ベレス コーダとして誇りを持っています。
コーダのことについて知っていない人が多いでしょう。
でも僕たちは
僕たち自身のことについて
このユニークなコミュニティーについて
誇りを持っています。
今日は君たちにそのことについて色々教えてあげるよ。

言語について

僕はコーダとして、アメリカ手話の中で育ってきたんだ。
アメリカ手話が第一言語で、英語が第二言語
ほとんどのコーダがバイリンガルで育ってきて
二つのコミュニケーションモード、つまり英語とアメリカ手話を日常で使っているよ。
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(ダンテ・ブルックス君)
僕の両親は(僕に)アメリカ手話を教えてなきゃいけなかったんだ。
でなきゃ、コミュニケーションが全く取れなかったからね。
もし教えてくれなかったら、もっと難しかっただろうね。
だって僕が覚えた最初の言語は(英語でなくて)アメリカ手話だったからね
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(ジャクソン アンダーソン コバック)
普通の人が英語を学んで育つように、アメリカ手話を学んで育ったんだ。
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(ダニエレ・モイヤー)
(アメリカ手話を)学習した覚えなんてないわね。
ただ、二つの言語を知っていて、そうやって育ったということは覚えてる。
これでアメリカ手話がわかる、英語がわかる、みたいな、そうやって気づいた瞬間なんてなかったわ。二つの言語を知っていて、そうして育ったのよ。
(ダンテ・ブルックス君)
ひとつ以上の言語を知っている今
普通に話すこともできるし、アメリカ手話を使うこともできる
ろう者とコミュニケーションをとるとき、 ろう者と話すときもやはり普通に話すことができる
それはやはり(僕が二つの言語を)両方知っているから

二つの言語の間で

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 (マイケル・ベレス)
 二つの言語を知っていることについてだけど、個人的にはアメリカ手話を使う方が好きで
それは如何してかというとやはりそれはアメリカ手話が僕にとってネィティブ言語だから
それは、英語と比べて、明らかに自然な成り行きだし
やはり一番使っていて心地がいい。
使っている時が一番、自分らしさを出せる。
それに(使っている時は)英語を使うよりも自分らしい様々な表現ができる。
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(ダンテ・ブルックス君)
英語よりもアメリカ手話を使う方が好きなんだ。
だってアメリカ手話が第一言語だし、使っていて心地がいいんだ。
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(ジャネット マックスウェル)
英語は社会的に使う言語です。でも手話は手話通訳者として職業的に使う言語です。
そして私にはあれよりもこれがいいという好みの言語がありません。
二つの言語を使って、コミュニケーションをとるということを楽しんでいます。
五分五分といったところかしら。
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(ジャロッド・モイヤー)
僕が思うに、英語かアメリカ手話を使う状況によると思うんだ。
友達と一緒にいる時は英語を使うだろうし。
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(ジェシカ・スマリオ)
私の兄弟は聴者だし、一緒にいる時は話すわ。
でもお父さんが部屋に入ってきたら、手話で話し始めるわ。
好みの言語なんてないわ。
でも私の育った環境と言語を見れば
(ジャクソン・アンダーソン・コバック)
僕の友人たちの多くは聴者だし、彼らはアメリカ手話なんて全く知らないよ。でも僕にとってはアメリカ手話を使う方が好きだな。自分らしい表現ができるし。

手話やろう者を知らない聴者たちのリアクション

(マイケル・ベレス)
コーダとして手話は自然なことなのです。私たちは日常生活で手話を見ています。
でもろう者にあったことのない聴者からにしたら、ろう文化について全く知らないし、手話についても全く知らないでしょう。だから彼らからにしたらそれは心地が良くないものかもしれません。
また、彼らの初めてろう者にであった時の彼らのリアクションは本当に様々でしょう。
(ジャロッド・モイヤー)
僕の両親がろう者だってわかったら、いつも色々聞いてくるんだ。
どうやってテレビを見るの?どうやって車の運転をするの?みたいな
(ジェシカ・スマリオ)
あ、ゴメンなさいって謝られるか、色々聞いてくる人もいるわね。
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(ジャネット マックスウェル)
点字が読めるの?
運転できる?
本当に見当違いの質問をしてくるのよ
私の両親には全く関係のないことなのよ。
手話について全く知らなくて、バイリンガルとは何かについて全く知らない人たちの考えることよね。
(ジェシカ・スマリオ)
聞いちゃいけないことを聞いたと思って
ゴメンなさいって謝ってくる人もいるわね
それでそれ以上何も聞いてこないのよ
(ダンテ・ブルックス君)
(変な顔をする)こういう風にリアクションすることが多いよ
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(ミキタ・バンダー・コートーエストラダ)
ほとんどがびっくりしたリアクションをする
だって私の(学校の)成績がいいから
ほとんどの人はろう者があんまり物事を知らないと思ってるの。

偏見

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(マイケル・ベレス)
ろう者に対するステレオタイプを持っている人は沢山いる。
多くの聴者はろう[deafness]を障害としてみなす。
ろう者たちは他の人たちと同様にコミュニケーションをとることができないと思っている人が多いのです。
でも実際ろう者であるということはそのように限定されていることではないのです。
彼らはろう者かもしれないが、だからと言って「静かな人」[silent]ではありません。
(ジャロッド・モイヤー)
自分の親が受け身だと思った事なんてないよ。彼らは自分の意見を持ってる。
両親ともに大学卒だし、良い教育を受けている。
(ダニエレ・モイヤー)
お母さんもお父さんもシッカリした人よ。
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(ミキタ・バンダー・コートーエストラダ)
ろう者だからと言って、馬鹿なわけじゃない。
私のお母さんは数学が得意で、私に数学を教えてくれるの。
(ジェシカ・スマリオ)
私のお父さんはとても賢い人よ。
大学へ行ったし、コンピュタープログラマーなのよ。
お母さんだって教育を受けたし
彼女自身で暴力を受けた女性のための非営利チャリティーだって作ったのよ。
彼女は全米で暴力を受けたろう女性のための声になってるのよ。
絶対にろう者だから受け身ってなわけじゃないわ。

二つの文化の中で生きる〜コーダという集族

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(マイケル・ベレス)
コーダであるということは
僕にとって集族の一部であることなんだ。
言語と文化に富んだ集族
そしてそれは(その集族は)僕の魂に根付いているんだ。
それはずっと変わらないことなんだよ。
無視できないことなんだ。
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(ジャクソン アンダーソン コバック)
聴者とろう者の両方の二つの文化に僕は属している。
それってすごいことだと思うんだ。
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ジャネット マックスウェル)
コーダであるということは私にとって重要なことよ。
自分の親を誇りに思う機会を与えてくれたわ。
おじさん、おばさん、従兄弟、そしておじいちゃんおばあちゃんもね。
みんなお母さん側の方でろう者なの。
だから自分の家族と繋がることができたし
それは自分の両親との繋がりについてもそうなのよ。
だから自分がコーダであることに誇りを持っているわ。
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それは聴者の世界でコミュニケーションをとるだけでなく
ろう者の世界においても(コミュニケーションをとるのを)助けてくれる。
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(ジャネット マックスウェル)
それに私はコーダであることを名誉に思う。
私たちのような人は多くないし、狭いコミュニティーの中だから
ろうコミュニティは密接につながっていて
私が思うにコーダ達も同様に特色を持ってつながっている。
私たちが作っている絆や繋がりは
親がろう者であるということや
同じような経験を共有しているから。
だからコーダであることを誇りに思う。

共有した経験

(マイケル・ベレス)
だから、もちろん
私たちはろう者の親を持つがゆえに
ユニークで、似たような経験を共有している。
(ジャクソン アンダーソン コバック)
時々、僕の義理の父がラジオをつけて踊り始めるんだけど
それがある時、ただの雑音だったんだ。でもそれでも彼は踊ってたんだよ。
ジャネット マックスウェル)
ろうの両親とろうコミュニティはとても近いもので、つながっているのです。
だから社会的な交流の場で、親が(友達と)あった時、なかなか帰らないのよ。
それは『ろう者式のサヨナラの仕方』[deaf goodbye]って言われてるの。
で、私の親はいつも「五分したら行くぞー」っていうんだけど
二十分経ってもまだいるのよ。
それでまた「あともう少ししたらいくぞー」っていうの
それで私たちが(コーダ)「早くしてよー」っていうんだけど
「わかった、わかった、あともう少しだから」って…
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(ダニエレ・モイヤー)
時々私のろうの両親についての面白い話をする時
どんな感じかって?
いつもこんな感じ。
私の親が通訳を頼んできたとき
でも私は通訳が全然ダメで
特にウェイトレスさんに対して
時々、お母さんがご飯にいちゃもんをつける時があって
でも私はこれが嫌で
だから私は「彼女はちょっと違うものが欲しいみたいです」
っていうの。
曖昧に言うんだけど
でもウェイトレスさんは
お母さんの(ご飯に対する)表情をはっきりと見れるわけよ
でも私は冷静に「おねがいします」って
ウェイトレスさん、またお母さんの怒った顔を見て、
私が「はい、お願いします」っていうのを見て
ウェイトレスさんが混乱してるのがわかるんだけど
でも仕方ないわよね(笑)。
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(マイケル・ベレス)
いつでも私たちはろう文化を、そして私たちのコーダとしてのアイデンティティを大切にしています。

 手話で自己紹介 そしてエンディング

(それぞれが各自、手話で自己紹介)
(場面変わり、三人のコーダの子供が音声英語で会話
親が部屋に入ってきた途端、みんなが手話に切り替える)

 

 

 

 

Japanese Sign Language Poetry by Hiroshi Vava

20 7月

One of the well known Japanese poet is named Kenji Miyazawa. His most famous iconic poem, Unbeaten by Rain, (Ame nimo makezu) is translated by a native Japanese Sign Language user, Hiroshi Vava.

Enjoy watching this with the English translation below.

Unbeaten by rain
Unbeaten by wind
Unbowed by the snow and the summer heat
Strong in body
Free from greed
Without any anger
Always serene

With a handful of brown rice a day
Miso and a small amount of vegetables suffice
Whatever happens
Consider yourself last, always put others first
Understand from your observation and experience
Never lose sight of these things

In the shadows of the pine groves in the fields
Live modestly under a thatched roof
In the East, if there is a sick child
Go there and take care of him
In the West, if there is an exhausted mother
Go there and relieve her of her burden
In the South, if there is a man near death
Go there and comfort him, tell him “Don’t be afraid”
In the North, if there is an argument and a legal dispute
Go there and persuade them it’s not worth it

In a drought, shed tears
In a cold summer, carry on
Even with a sense of loss
Being called a fool
Being neither praised nor a burden

Such a person I want to be

Translation Copyright © 2011 by Catherine Iwata, Fredrich Ulrich, Orlagh O’Reilly, Helen Bartos, Minaeri Park, Mokmi Park, Helen Bartos, Sophie Sampson, Kotomi Okbo, Eva Tuunanen, Alessanra Lauria, Sophie Sampson, Miwa Block, Nancy O’Reilly, Jasmina Vico & Yasuko Akiyama